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GOOD MORNING 学園長!

第90話 「学力」と「教養」は異なるもの

コンピュータが出現する21世紀になって、人間の記憶力がいかに小さなものに過ぎないかが明らかとなっているにもかかわらず、日本人は学問における真理の探究を、「思考する・哲学する」ことによって行うのではなく、あくまでも「覚える」ことの積み重ねによって到達できるものと考えているようです。
17世紀(江戸時代初期)に生きたフランスの数学者であり、哲学者のパスカルの「考える葦」を例に出すまでもなく、「思考する」ことこそ人間にしかできない能力であるのに、日本の教育の現場は今でも基本的には江戸時代の寺子屋や藩校で行われていた、記憶中心の解説型の授業がアップ・ダウン式に行われているのです。
ですから、教師は、どの科目に専門性を欠いていても、またどんな平凡な人生を送っていても、教師になるための資格は、結局のところは、担当する科目に対して生徒よりも少しでも記憶量が多いかどうかで決まるのです(家庭教師・塾・予備校はいうまでもなく、学校においても現在の教員採用試験を含めた教員の養成過程を見ればその事実は明らかです。)
その結果、生徒とその親は、家庭教師にも、塾や予備校にも、また小・中・高、はたまた名ばかりの大学へ高い授業料を払う羽目になるし、結果として教育は全て、「学力」とは程遠い「教養」で終わるのです。
ともあれ、私が思うところは、学問的に未熟で人生経験の浅い学生や教師(私もその一人かもしれません)によって、少なくても大切な自分の脳を教育されることは避けた方がいいのではないでしょうか?
日本の教育現場には、英文を和訳できない日本文を英訳できない英語教師、あるいは数学の公式の何たるかを理解できない数学教師が満ち溢れているといってもいいでしょう。このような教師(本人たちは自分を「教育者」であり、「聖職である教育」に従事していると思っているようです。)に教育されて、本当の学力がつくと思いますか?
この現実を作り上げたのも、我々日本人が学問の本質を「真理の探究」ではなく、「記憶量=偏差値」だと考えていることに主たる原因があるのではないかと思うのです。
あなかしこ、あなかしこ。

それでは、Good bye!